崩壊した家族関係。フィリピン移住に踏み込んだ、子育てへの信念。


不安ばかりのフィリピン移住。それを支えた家族への後悔と信念。


結婚し、子供が生まれたころ、私たち家族は、とても貧乏だった。

だが、私にはどうしても叶えたい、父親としての理想像があった。


それは、「家族と一緒の時間を何より大切にする父親像」だ。


サラリーマンとしての私の仕事は、私でない誰かが、簡単に代用できる。
しかし、娘の父の代わりは、私しかいないから。

止まらない残業、増えない給料。
時間もお金も余裕がない生活が続き、
私たち家族は一大決心して、フィリピンへ移住した。

結果、メイドやドライバーがいて、お金もたまる不自由のない、
社長待遇の生活を手に入れた。

今では、仕事が終われば、真っすぐ家に帰り、家族で必ずご飯を食べる。
週末は一日中娘と遊び、月に1度は二人で動物園にデートもする。
家族とは、私にとって、何物にも代えがたい、宝物だからだ。



フィリピン移住を決意した時、娘はまだ生後半年だった。
不安がなかったといえばウソになる。

それでも、その不安を脱ぎ払い、フィリピンへ行ったのは、
私が、子供だった時、取り返しのつかない間違いを
家族に対して犯したからだ。

数十年前、私が中学生だった時、家族とは、憎くてたまらないものだった。

 

中学2年のある事件をきっかけに、私の家族は崩壊した。

悔いても時は戻せないことを、最悪な形で体感した。
だからこそ、真逆の価値観へと私は、人生を生きることを決意した。



お父さんのようになりたい!! ヒーローになった父。

私が小学生だったころ、私の父は、とても眩しくカッコいい男だった。

英語の教員だった、父は英語がペラペラ。

運動会の両親のリレーでも上位入賞!
生徒の部活のために、夜遅くまで働き、休日も熱心に部活動の指導へと
明け暮れていた。

父の学校の運動会を見に行った時には、生徒の輪の中心にいて、
生徒から信頼を勝ち得ているのが、子供心によく伝わった。

今でも忘れない思い出がある。
私は、小学校6年生の時、歴史小説にはまり、
どうしても京都へ行ってみたかった。

父と母に何度もお願いし、念願かなって京都へ行ったのだが、
新幹線で行く道中、あるちょっとした事件があった。

静かな新幹線車内に、急に大きな声が飛び交った。
「どなたか、英語がお話しになられるお客様いらっしゃいませんか?」

どうやら、チケット確認を行っていた車掌さんが、外国人韓国客と
トラブルになっているようだった。
ざわつく車内。戸惑う車掌さんと外国人。

こういう時、誰も動かないのが日本社会。
困った車掌さんは、汗をかきながら、がんばるも事態は何も解決しないようだ。

そんな中、「やれやれ・・・」と声をだし、外国人に近づく人の姿があった。

私の父だった。
父が外国人のそばに歩み寄り、何か話すと、あっという間にすぐ事態は解決した。
車掌さん涙目、外国人満面の笑顔。動じない父。
聞こえる周りの人からの拍手。

「お父さん、かっけー!!」
父は私のヒーローになった。
大きくなったら、お父さんみたいな英語の先生になろうと、この時決めた。

この時、私はその後、7年も父と話をしない生活が来るなんて、
微塵も想像していなかった。


 

倒れた父。目の当たりにする植物人間。崩壊する家族関係。

 

父のような英語の教員になると決めた私は、中学生になると一生懸命勉強した。
先生の言うことを何でも聞いた。当時の私にとって、先生とは、まさに崇拝すべき対象で、
先生の言うとおりにすれば、先生になれると信じ込んでいた。

その結果、同級生にとって、私はある種、頭でっかちで、
先生にゴマすっている奴にうつったんだと思う。
中学2年生になったとき、気づけば周りに、友達が一人もいなくなっていた。


すごい苦しかった。学校に行きたくなかった。
ぎりぎりのところで、学校へ通うも、尊敬する先生に、ちょっとした手違いで、
全校生徒の前で叱られたことで、私の心はポッキリ折れた。
学校の、誰も信じられない。

家族だけが、父の存在が、私の心の支えだった。


ところが・・・その父が病で緊急入院、手術になった。

脳幹に大きな腫瘍ができていた。

頭痛を訴え、足を引きずるようにしていたのだが、仕事の忙しさを理由に
病院にもろくに通わず、発覚が遅れたのが致命的だった。

主治医さんが言うには、脳幹は全ての神経の中心であり、腫瘍を取り除く際、
少しでもずれたら、命はない。
生きるだけでも奇跡といわれる大手術だった。

手術日の前日、心配そうに見る私に父は言った。
「そんなに心配しなくても大丈夫だ。必ず戻るから。」

しかし、次に私が見た父は、体中あちこちが機械に管でつながっていた。
手術は成功したといったが、意識が一向に戻らなかった。
植物人間になった父。

「戻るっていったじゃないか。。。」

友人もいない私は、何にすがっていいのか、わからなくなった。


 

奇跡的に回復するも、ここからが絶望の始まりだった。

父の意識が戻らないまま、数か月が過ぎた。
その中で、私はある違和感に気づいていた。

生活が何も変わらないのだ。
父という一家の大黒柱がいなくなろうものなら、生活が一変するものと
思っていたのだが、何も変わらなかった。

そういえば、最後に父と遊んだのは、いつだろうか?
一緒に食事をしたのは、いつだろう?
病気に関係なく、ここ最近ずっと父と一緒に過ごしていたかったことに気づいた。

病気で倒れるほど仕事が忙しかったんだろうし、そんなものかと当時は
深く考えもしなかった。


そして、手術から半年たったある日、父の意識が回復した。
うれしかった。
さすが、ヒーローだ!!約束を破るはずがない。

ここまでなら美しいTVドラマがだ、現実は悲惨だった。
ここからが、悲惨な家族生活の始まりだった。

父は、意識を取り戻したものの、左半身全てが麻痺状態になっていた。
手も足も、口も満足に動かせなくなった。


結果、何を話しているのか聴き取れなくなった。
車いすや人の介護なしに、父は動けない体になった。

最初は力を合わせて家族みんなでがんばった。
生死の壁を乗り越えたんだ。今度は自分たちが父を支える番だ。

でも、本当に大変すぎた。
母は、ただでさえ父の分も稼ごうと必死なところに、父の病院への送迎、
介護が押し寄せて、心も体力も余裕が一切なくなった。

父は、今までできていたことが、できなくなったことで、ストレスがたまり、
家であばれるようになった。精神病も患い、よくわからない声を上げるようになった。

部屋の掃除なんてする余裕もなくなり、どんどん家が荒れていった。


誰に頼っていいかわからなかった。
学校の誰も信用できない。父が障害者なんて恥ずかしい。
家は怒声ばかりで帰りたくない。

全ての現況になった父を恨んだ。
病気になった父を憎んだ。

なんでこんな不幸を背負わないといけないんだ!!
あんたなんて父親じゃない。

そこから、私は父の存在を一切無視するようにした。
話もしない。視界に入れない。

大学は地元から離れたところにきめ、高校卒業と当時にすぐ家を出て、
帰らなかった。それから7年、私は父と一切口を聞かなった。
一緒の部屋にもいなかったと思う。


突然の父の死。戻らない時間。

大学生活では、世界のあちこちを旅をした。
アルバイトでお金を貯めて、アメリカやカナダ、イギリス、フランス、
チェコ、オーストラリア、東南アジアもあちこち回った。

海外は楽しかった。私が誰とか、障害者の父がいるとか関係なしに、
私という人間を受け入れてくれた。

当時に海外に出て思うのは、家族を大切にしている人がとても多い。
家族一緒に食事やパーティーをするし、日本とまるで違う。

大学3年生になり就職も近づいてくると、将来の不安もあり、
親の話が聞きたくもなってきた。
世界で英語で話せるのも、父が教えてくれたおかげ。
肩肘はらずに、ちょっと話をしてみるか。

 

 

そんな中、また事件が起きる。
忘れもしない、五月晴れの透き通るような早朝に、
電話がけたたましくなった。

 

 

家族嫌いな私は、母の電話は基本無視していたのだが、
この時は何か直感が働いたんだと思う。

「お父さんが亡くなった。」

 

 


どうやって帰ったのかよく覚えてない。
久しぶりの実家に帰ると、つめたくなった父の体がそこにあった。
歩かなくなった足は、棒切れのように細かった。

父の顔を痩せこけていた。こんな顔だったっけ?
父の顔を直視したのは、7年ぶりだった。

最後に何を話したんだろう?
父ってどんな声だったんだろう?
父は死ぬ間際、何を考えていたのだろう?
口を聞かないバカな息子を、どう思っていたんだろう?

涙と嗚咽が止まらなかった。

本当は、父が、大好きだったと、ようやくわかった。

英語の先生になろうかなって、勉強して、英語の先生の免許もとった。
お父さんみたいになれるかなって相談したかった。
つらかったこと、楽しかったこと、いろいろ聞きたいと思ってた。

話したいことがたくさんあったのに、気づくのが、遅すぎた。


 

失う前に気づいてほしい。時間は二度と戻らない。

悔いても悔やみきれない。仕事が苦しいときは何度も思った。
お父さんと一緒にビール飲みたい。
お父さんなら、なんて答えてくれるんだろう?

でも、時は戻らない。

 

それと同時に、やっぱり思う。

父は、そこまでして、仕事をする必要があったんだろうか?
仕事を休んでも、病院に行っていれば、こんな大事に
いたらなかったんじゃないか?

どうして、自分は父の気持ちを理解しようとしなかったのか?
父との時間をもっと普段から共有してれば、7年も空白を開けることなく、
互いに寄り添い生きられたのじゃないか?

だから、私は決めた。
何よりも、子供との、時間を大切にする。

 

大人にとっての10年はあっという間かもしれないが、子供にとっての
10年はとても長く、濃く、繊細だ。

一緒に時間を過ごせば過ごすほど、子供は愛情を知り、
愛情がその子の折れない自信の幹になる。

過ごす時間が少ないほど、子供は自分の存在に迷い、生きる価値を見失い、
落ち込み、逃避・失望・責任転嫁の自立しない生き方を歩むようになる。

親を恨むのは、たくさんだ。こんなつらい気持ち、もう二度と味わいたくない。
家族を持つすべての家庭に、仲睦まじく、温かい過程を築いてほしい。

 

英語を通じて、繋がる父の遺志。だから、私は 海外で子育てする。

父に教わった英語を駆使して仕事をする!と心に決めて、その後、
私は新宿にある外資系の会社で仕事を始めた。

そして、まもなく授かり婚で、想像よりずっと早く
私自身もまた、父親にもなった。

 

東京で待っていたのは、貯まらない貯金に、止まらない残業、
見つからない保育園。


今では、病気になってでも最後まで働きとおした父の気持ちがよくわかる。

私のために、私たち家族がお金で困らないよう必死だったんだ。
その強い思いがなければ、ストレスの多い教育現場で何十年も教壇に
立ち向かい続けられない。
言葉に出さなくても、私を愛していてくれたんだ。

家族との時間が作りたくても作れなかったんだ。

父と同じような道を歩もうとしている自分の生き方にブレーキがかかった。

これじゃダメだ。娘に私と同じ思いをさせられない。
私は、娘と一緒にご飯も食べるし、一緒に遊ぶし、絵本も読む。
何より、娘が大人になる姿を見るまで、結婚するまで、孫を生むまで、
絶対に長生きする!!

 


そして、私たち家族は、東京という都会を離れ、フィリピンへ移住した。
父の英語を活かし、世界で子育てすることにした。

結果、物価が安いので、年収500万円のサラリーマンでありながら、
貯金の心配がなくなった。
プール・ジムつき、メイド・ドライバー付きの生活を送り、
子供との時間がぐっと増えた。

3歳の娘の英語の発音は、すでに私以上で、きっと父が存命していたとしても、

娘が一番英語が上手になるに違いない。


父が身をもって、家族の大切さを教えてくれた。
英語を通じて、世界の広さを教えてくれた。

おかげで、私は貧乏なサラリーマン生活を脱し、
世界で社長待遇のサラリーマン生活ができるようになった。

だから、今度は私が発信したい。


東京の子育て、苦しくないですか?
家族との時間、ありますか?
手遅れになる前に、追いつめられる前委に、
海外で簡単に豊かな生活ができることを、どうか、心に留めておいてください。


コメントフォーム

名前

メールアドレス

URL

コメント

CAPTCHA


トラックバックURL: 
カテゴリー
管理人プロフィール

管理人:町田  海渡 (かいと)

年収500万円、3歳の娘が一人いる
30代サラリーマン平社員。

しかし、その生活スタイルは、
まるで社長!!

ドライバー・メイド・乳母を雇い、
プール・ジムのある家に居住。

昔は、東京で働いていたが、
 ●たまらない貯金!!
 ●とまらない残業!!
 ●見つからない保育園!!
 ●信じられない教育戦争!!
に挫折。

フィリピンへ転職することを決意。
今の社長待遇の優雅な
サラリーマン生活を手に入れた。

娘は3か国語を話す
スーパーガールへと成長中。

⇒ 町田海渡は、頭のネジが5本外れているらしい。

最近の投稿